鴉
少し奥に『第四研究室』と書かれた金属製のプレートが貼り付けられているのが見える。
その真下の磨りガラスのドアまで進んでゆく。
琉央さんがドアの右側に付いた文庫本より一回り大きいくらいの白いパネルに手をかざした。ピピッという小さい音のあとに、カチャっと微かに鍵が開いた音が聞こえた。
中に入るとそこは広めの部屋で、薄緑色のゴムっぽい床に、コンクリート打ちっぱなしの壁。左側の壁は全面ガラス張りになっていて、暗いしガラスに光が反射して中はよく見えない。右側の壁にはいろんなモニターや機械がたくさん並んでいる。
何台も並ぶモニターの奥に、デスクに座ってパソコンの画面と紙を怖い顔で交互に眺めている女の人が見えた。
明るいグレーの髪を後ろにお団子で一つに纏めている。少し顔が幼く見えるけれど、オレは女の人の年齢に疎くて歳はよく分からなかった。
「ゆきちゃん!」
声をあげた魁君が嬉しそうにその人の元に駆け寄っていく。
「遅い」
その人が言いながらこちらを見た。一瞬目があった気がしたけれど、そのまますぐに逸らされた。
「ごめんって〜、今度チョコフォンデュ奢るから許して」
「はぁ……まったく」
魁君の言葉にため息を吐いて、その人は魁君ににっこりと微笑む。
「チョコフォンデュなどなくとも許してあげるよ、魁君に免じて」
言ったその人は立ち上がって、また厳しい顔に戻ってこちらを見た。白衣を着ているのにとても華奢なのがわかった。口調の強さに反して、小柄でとても若く見える。
「君が新人の一也君だね?」
尋ねられて「はい」と返事をする。
「卯ノ花 結姫です。ここ第四研究室の研究主任しています。結姫、と呼んでくれて結構です」
研究主任。やっぱりそんなふうに見えない。失礼な事を考えならがら、オレは「はい」と真面目な声で返事をした。
すると結姫さんは失礼な事を考えるオレに、今度はにっこり笑い掛けて「よろしくね」と返してくれた。
「ところで」と結姫さんが呟く。
「琉央、どこまで説明してるの」
「まだ何もしてない」琉央さんが答えた。
「はぁ? 今回の世話係はあんたでしょう? 何やってるの」
「立て込んでた」
「最優先事項より重要な仕事って何」
「それについて教える必要はないよ」
琉央さんの答えに、途端に空気がピリピリしはじめて、結姫さんが眉間にシワを寄せる。この二人、仲が悪いんだろうか。
オレは少し焦って魁君の方を見た。魁君は、ニコニコしながらその様子を見ている。なんだか見たことがある光景な気がする。少し考えて、ふと、オレが初めてカフェに行った日の琉央さんとおじさんの会話を思い出した。
あの時だって、結局魁君の言う通り、琉央さんは丁寧にオレに説明をしてくれたし、優しくしてくれた。「立て込んでた」と言う琉央さんの言葉に心当たりがあって、オレは思わず「あ」と声を出す。
きっと琉央さんは瀧源さんとオレの事、庇ってくれてるんだ。オレのことを気遣って説明も後回しにしてくれたのに。
「琉央さん……」
思わず呟いた言葉に、琉央さんが振り向く。
「オレの事庇わなくて大丈夫です」
「庇う? 何の話?」
「その……だって。立て込んでたのって、オレ……と、瀧源さんの所為じゃないの?」
すると、琉央さんは心底わからないと言ったような表情をしてもう一度「……何の話?」と呟いた。
「あははは」と魁君の笑い声が聞こえる。
「一也ぁ、優しいね〜。よくわかってんじゃん! でもね、琉央くんに何言っても無駄だよ」
「どうして?」
「あの人、全部無自覚だから」
オレは一瞬キョトンとして、それから思わず眉間にシワを寄せた。無自覚っとは? つまり。人のために、と思ってやってるわけじゃないってこと?
え、じゃあどういうこと? 何も考えてないけど、人のためになってる? もしくは本当に何も考えてないってこと?
よくわからないんだけど。
オレは混乱したけれど、考えることを諦めてため息を吐いた。どっちにしても、琉央さんはきっと難儀な性格なんだな。もう少し言い方を変えればいいだけなのに。
なるほど。それもきっと無自覚、無意識なんだろうな。
ここまでの一連の出来事を、魁君はお見通しだったって事か。オレはこの一連の出来事で、この人たちの関係性をなんとなく感じ取った。
「はぁ、まったく、よく分からないけど……」
結姫さんの言葉に「オレもよくわかりません」とは言えなくて押し黙る。
「一也君、ごめんね。初めての事が多くて不安だらけでしょう。気まで遣わせて……」
「いえ、二人が……よくしてくれて」
「そう、ならよかった」
結姫さんが眉尻を下げて呟く。そして、デスクに広げていた資料を片付け始める。
「疲れているかも知れないけど、実践しながら説明した方が分かりやすいと思うって委員長から言われてるから。ご指示通り訓練室を開放しておくね」
「委員長?」
オレが尋ねると結姫さんは、そう、と頷く。
「瀧源シュン委員長、兼少佐。あなたのこと、くれぐれもよろしくって言われてるから」
少佐、ということは、瀧源さんは国家防衛隊にも所属してる防衛士官なのか。あの見た目で少佐。思ってたよりすごく偉い人なんだな。
オレがぼさっと考えていると結姫さんに「何をするかは聞いてる?」と尋ねられた。
「か、簡単には」
オレの様子を見て、結姫さんは少し呆れたようにため息をついた。