鴉
西藤少佐が訪ねてきた日の正午、シュンさん達はミニバンに乗って指定された現場に出動した。
脅迫文の内容は、本日行われるミニアルバム発売記念の握手会で『全てを破壊する』というもの。
警備スタッフに変装して現場に潜り込む、というところまではオレも聞くことができた。
それ以外の詳細についても詳しく聞きたかったけれど、西藤少佐の前で尋ねるのも気が引けて、任務についてはそれ以上何も聞かずに3人を見送った。
3人とも、特にシュンさんがオレのことをすこぶる心配して「気を付けてね」と小声で声を掛けてきたのには思わずオレも吹き出した。
「気を付けて、はオレの台詞じゃないっすか」
そうオレが言った時のシュンさんのしょぼくれた犬みたいな顔は、写真に撮っておけば良かったといまだに後悔している程いい表情だった。
SR-maiden。
懐かしい名前だ。思わず声を上げてしまったけど、西藤少佐に悟られなくて良かった。
佐丞のことを思い出す。あいつは元気にしているだろうか。
今回の任務は外してもらって正解だったと思う。
アイツに会ってしまったら、どんな顔していいか分からない。誤魔化せるかも、分からないから。
「いつも通りに生活してくれたまえ」
シュンさん達が出掛けてすぐ、そう西藤少佐に言われたから、オレは素直にカフェの机で高校の宿題をする事にした。
今月から始まった高校へは行けていない。
表向きは入院の扱いとなっているらしいけれど、学校から配布されたタブレット端末には、関係なく毎日宿題の情報が送られてくる。
多分、宿題をしていなくても怒られない気はするけれど、監視されている中で出来ることはそれくらいしか思い付かなかった。
「カフェの中と君の部屋以外にはプライバシーの観点から入る事は禁止されている。安心したまえ」
とか何とか言っていたけれど、そんなの嘘に決まってる。
「はい」と返事をしながら、オレは西藤少佐の動きを監視し返してやる事を誓ったのだった。
とはいえ。
オレは目の前に広げた数学の宿題を解きながら、その奥で書類を片手に足を組んでいる西藤少佐を盗み見る。
さっきから、オレは西藤少佐に絶大な違和感を感じていた。
目の前の西藤少佐は、オレを監視する気がないんじゃないかと思えるほどリラックスしているように見える。
書類に集中して、オレのことなんか何にも気にしてないんじゃないかとこっちが心配になるほどに。
というか、書類を監視業務に持ち込んでいる事自体任務態度としてどうかと思う。
オレがコーヒーを出したら、ゆったりと飲み出しそうな気配さえする。
オレは丹を呼び寄せる存在だと疑われているはずだ。
という事は、防衛士官なら危機に対して迅速に対応する為に常にすぐ行動できる体制で座っていないと辻褄が合わない。
そのはずなのに、西藤少佐は上着を椅子の背もたれに掛けて、書類を真剣な顔で読んでいる。
そもそも監視場所を研究室じゃなく屯所にしているのも怪しい。
オレを懐柔していろんな事を吐かせようという魂胆なんだろうか。
尚更この人をオレが監視し返さないといけない。そうオレは強く思ったのだった。
あんまりにもオレが見ていたからか、西藤少佐がふいにこちらに視線を上げた。
「何か?」
「あっ……えっと……」
尋ねられて、まさか「あなた、監視する気あるんですか?」とも言えずにオレは言葉を詰まらせた。
「コーヒー、飲みますか?」
咄嗟にさっきまで考えていた事が口から漏れた。
そんなオレに、西藤少佐は少し微笑む。
「気遣いは結構。ありがとう」
言って、そのまま目線を下に落とした西藤少佐に、オレは面食らって下を向いて考え込んだ。
穏やかな声だった。演技にしては自然すぎるような気がするほどに。
オレを懐柔しようとしているのか。それともまた別の目的があるのか。
けれど相手は防衛士官少佐、実質的に最年少で少佐になったエリート。ここで怯むわけにはいかない。
懐柔されたフリをして仲良くなって、こっちから目的を暴いてやる。
「それなら……紅茶はいかがですか?」
オレが食い気味に尋ねたからか、今度は少し驚いた顔で西藤少佐がこちらを見た。
「オレが飲みたくて」
何か言われる前にオレが重ねてそう言うと、西藤少佐は「そうか」と言って立ち上がった。
「厨房へ行くなら、私も行こう」
オレは内心ほくそ笑んだ。
厨房には監視カメラが1台しかない。死角が多いから、西藤少佐の真意を確かめるにはちょうどいいはずだ。
「ありがとうございます」
オレはそう言いながら立ち上がって、厨房に足を向けた。
厨房の中に西藤少佐が入ってくるのを待ってから、オレはティーポットとカップをビルドインの棚から取り出した。
「いい品だな」
そんな西藤少佐の呟きが聞こえて、オレは思わず西藤少佐の顔を覗き込む。
優しい顔だ。
そしてふと、西藤少佐の立っている位置に違和感を感じて、ちらっと天井を確認する。
カメラが見えない。ちょうど西藤少佐の陰にオレが隠れる形でカメラの死角になっている。
監視カメラの死角に立たない、死角を作らないというのは任務遂行の基本だとシュンさんから習った。
優秀な防衛士官の少佐がそんな基本を忘れるんだろうか。
それともわざと?
何のために。
オレは少し考え込んでから、そっと腕時計を撫でた。
SR-maidenという名前を久しぶりに聞いたからだろうか。オレは親友の佐丞の言葉をオレは何故か思い出していた。
「案外とお前のこと思ってる人ってたくさんいるぞ」
懐かしいな。
他者のことを信じられなかったオレの心を一瞬にして懐柔した佐丞。
佐丞が観察官だったら、オレはすっかり飼い慣らされて、洗いざらい全部吐いてしまっているかもしれない。
ぼうっと考えながら、オレは吊り戸棚から紅茶の缶を取ろうと、天板に片手をついて背伸びをした。
その反動で、Tシャツの胸ポケットに入れていた音叉が滑ってポケットからこぼれ落ちた。
まずい、と思った。
その時————
———— 西藤少佐の大きな手が音叉を静かに受け止めた。
そしてため息をつきながら、そっとオレの胸ポケットに音叉を戻してオレの顔を覗き込んだ。
「火傷をするぞ。気を付けたまえ」
西藤少佐は呆れた顔をしていた。そして、オレの耳元に顔を近付けて囁いた。
「音叉の音が鳴ったら立場がもっと悪くなるぞ。気を付けろ」
オレは呆気に取られて西藤少佐の顔を、まじまじと眺める事しかできなかったのだった。