鴉
おじさんを見送ってすぐ。オレは魁さんに連れられて、例の基地に続く厨房の入口をくぐっていた。
待機スペースを抜けて左手。あの日の会議室へ向かう側とは反対に伸びる廊下を少し進む。
少し薄暗い廊下を歩いて行くと、ヒノキに似た木の香りがして、思わず深呼吸をした。
「いい匂いがする」
オレが呟くと、魁さんが嬉しそうに「あ! 気付いた?」とこちらを振り返った。
「これね〜リラックス効果がある香り、オレが選んだんだよ! ほら、前来たとき、一也が具合悪くなっちゃったって言ってたから。フレグランス焚いてみたんだ〜! 気に入った?」
笑顔で話す魁さんに、オレは「はい。とっても」と答えて、けれど、同時にとっても申し訳なくなって、下を向いた。
「どしたの? また気持ち悪くなっちゃった?」
「いや、その……」
心配そうにオレを覗き込む魁さんに、オレは言葉が詰まった。
「……すみません。えっと、気を……遣ってもらって」
やっとのことでオレが言うと、魁さんは「いいのいいの!」と笑った。
「俺も臭いの嫌いだし〜、なんか空気よどんでたし〜、ちょうどよかったから!」
気にしないで、と魁さんは付け加えてさっさと先に進んでゆく。
オレは申し訳ない気持ちと、ありがたさを噛み締めながら魁さんの背中を追った。
少し進むと、先に明るく開けた空間が見えて来た。
黒いカーペットに白い壁と天井。そんな高級マンションみたいな少し広めのエントランスに、焦茶のドアが左右4つずつ、あわせて8つ並んでいる。
その内1つの扉の前で、魁さんが足を止めた。『6』と金字で書かれた黒いプレートが下がっている。
「はい、ここが一也のお部屋〜」言いながら魁さんがその扉を開けた。
魁さんに続いて中に入ると、そこはなんの変哲もない、マンションのワンルームのようだった。
壁と天井は白くて、床は焦げ茶色のフローリングだ。ただ、壁に窓は無くて、奥の天井が少し傾いていてそこが天窓になっている。
奥にベッドが見えて、部屋の左手前の奥にカウンター付きのキッチンが見えた。他に家具は見当たらない。
「ちなみに〜」魁さんが言う。
「ここに監視カメラはないから安心していいよ」
「他の所には付いてるんですか」
オレは思わず咄嗟に聞き返した。けれど、機密組織であろう施設に監視カメラが付いていない方がおかしいだろう、と思い直す。
そんなオレに魁さんは「もちろん」と返して、少し意地悪な顔をした。
「あ、もしかして一也く〜ん。恥ずかしいことした覚えがあったり?」
「し、しません」
「だよね〜、知ってた〜」
ウケる、とかなんとか言いながら魁さんがけらけらと笑う。
オレが眉間にシワを寄せると、魁さんがまた「あははっ、ごめんって」と、また楽しそうに笑った。
「部屋の説明するから許してよ」
言いながら、魁さんが右手にあるドアを開けた。
「ここがトイレ。もう一個のドアがお風呂。この部屋全部一也のだから、自由に使ってね。ちゃんとお掃除するんだよ!
けど、キッチンはあんまり使わないかな〜。支給物資もあるし、ああ見えてシュンちゃんお料理上手だから。ご飯めっちゃ美味しいんだよ! だからシュンちゃんが作り置きしてくれたご飯食べてればだいぶ満足できると思う〜。
ベッドだけは先に入れてもらったから、今日の寝床は困らないかな」
オレは話を聞きながら「はい」と相槌を打ってキョロキョロ部屋を見渡す。
ここでこれから暮らすことになるのか。そう思いはするけれど、実感はあまり持てなかった。
あんまりにも普通だと思った。もう少し、特殊なものが置いてあったりだとか、特別な設備が整えられていたりだとか。
逆に、何人もの人が一つの部屋に鮨詰めになっていたりだとか、人間の住む場所として相応しくない場所に押し込まれたりだとか。著しく普通と掛け離れた場所を想像していたからだ。
逆に肩透かしを食らった気分だった。
「それでね」
魁さんの声で思考が引き戻される。
はい、とオレが返事をすると、魁さんが眉尻を下げた。
「早速で悪いんだけど、これから俺たちのお上 が作った緊急対策研究室っていう施設で詳しい説明と訓練の導入をしようと思うんだよね。一緒に付いてきてくれる?」
「おかみ?」
「飼い主様。ほら、俺たち、“国家” 機密組織だから?」
魁さんの言葉にオレは「あぁ」と納得して、すぐに背筋を伸ばして「分かりました」と答えた。