鴉
僕はフルハーネスに繋がったワイヤーのフックを屋上のフェンスに引っ掛ける。そして、フェンスの外に体を乗り出した。
安全装置のない、ましてや長さしか調整できないワイヤーでここから飛び降りるなんて、琉央が見たら卒倒するかも。
狙いを定める。そして勢いをつけて、フェンスの縁を蹴り出した。
ガッ、と音がして、体が宙に放り出される。
風圧で喉が圧迫される。
勢いに任せて音叉を口から放り出す。そして、ぐっと奥歯を噛みしめた。
風が耳元で強く鳴る。
コートが靡いて風を切る。
強く重力を全身に感じた。
どんどん近くなって、聲が大きくなる。
あと5拍。
4。 3。 2。 1。
今だ。
足に衝撃があった。
そのまま僕は足を強く蹴り出して、そいつを地面に叩きつけた。
一瞬遅れてドン、と鈍い音を感じる。ギャァと鳴き声がして、そいつが思い切り体を地面に擦り付けながら転がった。
僕は地面に手をついて勢いよく着地した。
コートの裾が擦れて靴の踵が削れた。
しゃがんだまま太腿で体重を支えて、体を立て直す。立ち上がりながらワイヤーフックをフルハーネスから外して、すぐにそいつと対峙した。
暗がりにぼうっと輪郭が浮かぶ。顔の様子は窺えない。まだ服を纏っている。けれど、赤く染まって原形は定かじゃない。
体が膨張しているのが分かる。腹と肩。違う生き物の形が見て取れる。野鳥か、野良猫か。
別の生き物まで仲間にして、体にくっつけてきたらしい。
手がかかるな。
太腿のナイフに手をかける。三本で足りるか?
やつが構えた。
僕は足を踏み込む。そして前方に走り出した。
十分こちらに引き付けるように。
蛇行して挑発する。
そう。こっちだ。
僕を見ろ。僕を認識して。
さぁ、僕を殺しに来い!
目が合った。
『僕に君の聲を聴かせてみろ』
横腹に力を込めた。首に吊り下げた音叉を掴んで手の甲に叩きつけて、そのまま前歯で強く噛む。
『痛い』
同調を感じる。
『痛い』
泣いているのが聴こえる。
同情はしない。感情を閉じる。同情したら引き込まれる。
「僕は君と一緒にはなれない」
だから。
『僕が君を助けてあげる』
やつの左後方に回り込む。
僕は手に持っていたナイフを構えてやつの心臓に向けて投げつけた。
ひゅっと風を切る音がして、鈍い音と一緒に身体にナイフが突き刺さった。
けれどビクともしない。ダメだ。同調が遠い。僕は素早く次のナイフを太腿のレッグホルスターから引き抜く。
泣き喚くやつの腕が触手のように伸びる。僕を捉えようと、しなって振り下ろされる。
左へかわす。やつの腕が地面に突き刺さった。目線は外さない。
次のが来る。
地面に刺さったやつの片腕を踏みつけて、僕は全力で踏み切った。
身体を宙へ投げ出す。
空中でもう一度、腕を振り回すやつの全身を視界に捉える。
次はどっちから————
瞬間。
ドンと音がした。
「———— ……っ!」
遅れて左胸に衝撃があった。バランスを崩す。
まさか。
やつを見やる。背中から発芽するように腕が生えているのが見えた。その腕の攻撃を食らったらしい。
まずい。症状の進行が早い。
形態変化は丹が体内で増殖している証だ。
途端、違う腕が振り下ろされる。
ゴッという音と衝撃がある。
「うぐっ……!」
右肩に一撃をまともに食らった。息が止まる。
次の瞬間、背中を強く地面に打ち付けた。
「がはっ」
肺から酸素が一気に追い出される。目の前が霞んだ。手からナイフが転がり落ちた。
間髪入れず、上から杭を打ち込むように別の腕が降ってくる。
腕の力だけで体を転がす。
息を大きく吐く。
ガンッ————
顔のすぐ横で、腕が地面を穿つ凄まじい音がした。
攻撃が止んだ。地面のレンガに腕がハマったか。
すかさず僕は起き上がりながら音叉を手の甲に叩きつけて前歯で噛む。
聴こえる。
『いたい』
痛いと叫んでいる。
ナイフは残り一本しかない。
けれどまだだ。まだ、こんなんじゃ同調が遠すぎる。殺しきれない。
その時。
シュッと耳元を何かが通り過ぎる。
やつの腕だった。
まるで見えなかった。避けきれなかった。背筋が冷えた。
今の攻撃は僕の心臓を貫いてもおかしくなかったはずだ。
僕を刺し損ねた? なぜ?
僕は動かないやつを凝視する。
『痛い』
聲が聴こえる。
『苦しい』
『しにたくない』
『いやだ』
『イヤダイヤダ嫌だいやだいやだああああああああああ』
あぁ。なんで。なんで、どうして、こんなにも。
僕は僕であることを憎ましく思うのだろう。
知っているんだ。僕は全部。本当は。
丹に飲み込まれてしまった人たちの末路を。
一瞬の多幸感、その先にどんな感情があるのかを。
丹と同調してしまったその先。
その感覚を享受する器がない人たちは。
みんな、一瞬の絶頂に達して、その後こうやって死に向かう。
そして人によっては、地獄のような苦しみを味わいながら、丹として他の生き物を殺戮し続ける。
かわいそうに。
でも、こうなったらもう、殺してあげることしかできないんだ。
『大丈夫』
深く。
同調する。
『僕は知ってるよ』
あぁ。分かる。
その名前のない感情が。
“丹” としての君と、“君” 自身の感情が。
溶けて一つになる感覚。一瞬の多幸感。
そのあとに気付く。君は君自身であって、丹では無かったこと。
もう戻れない。背後に待ち受け広がる深淵が。
『分かるよ』
深く深く、同調する。
音叉の音は聞こえない。
けれどやつは急に大人しくなる。
『すぐに終わるよ』
残りのナイフを捨てる。
深く深く堕ちていく。
やつの感覚が僕の脳内に流れ込んで。
僕はやつになって、やつは僕になる。
例えるなら。
『痛いのは一瞬だよ』
何度も僕は、彼らと心中をしているんだ。
同情はしなくても、やっぱり共感してしまう。
またこうやって。僕は全くダメなヤツだ。
腰に下げた拳銃に手をかける。
同調する。
『ほんの、一瞬だよ』
僕の一部をあなたにあげる。
そして一緒に死んであげる。
本当はダメなんだよ。これを使っちゃ。
『だからどうか』
引き金に指をかけた。
『安らかに』
「逝ってくれ」