鴉
「シュンちゃんっ! おかえりっ」
「ただいま」
帰った途端、ドアの音を聞きつけたらしい魁が真っ先にカフェの裏口に飛んできた。
ボロボロの僕の姿を見た瞬間、彼は心底しょぼくれた顔をした。
大きな目が潤んで見える。きっと声には表さないけれど、僕が勝手に一人で丹を片付けている事を、心底心配しているんだろうな。
それでも、何も言わない。彼は、ひどく、優しい人だ。
午前6時を知らせる鐘がカフェの置き時計から聴こえてくる。
魁の緩く下に結んだ髪は少し濡れていた。シャワーを浴びたのか。早起きなんだか、夜更かしなんだか。
「お茶でも飲む?」
魁にそう尋ねられて、僕は首を横に振った。
「このまま部屋に帰って寝るよ。明日、というかもう今日だけど。午後から研究室で会議だから」
「……そう」
彼はまた、あからさまにしょぼくれる。
そして「そうだよね。ごめん」とも呟いて、薄灰色のパーカーの裾をぎゅっと握った。
「俺、何もできないけど。心配だよ、シュンちゃん」
必死に絞り出したような声はとても小さかった。
僕はため息を吐く。
心配されているのは分かっている。
けれども。心配して、僕に付いて来ようとした事は無いし。口では何度も止めろと言うけれど、無理やり殴ってでも止めやしないのだから。
そういうことだ。
そんな事を考える僕は、きっと、とても酷い人だと思う。これが彼なりの、非常の優しさであるはずなのに。
それなのに僕ときたら。
とても極端な性格だから。そういう繊細な優しさに心底から気持ちを寄せられないんだ。
彼が僕の “存在意義” を尊重していることなんて、痛いほど知っているのに。
「ありがとう」僕は呟く。
「魁は夜更かしして、大丈夫なの?」
尋ねると、魁は困った顔をした。
「俺のことはいいんだよ」
「ダメ」
「なんで〜……」
「魁、この間の検査結果、僕が知らないとでも思ってる?」
「っ、」
「だからダメだよ」
ふざけた様子だった魁は途端に口をつぐんで、僕の事をじっと見つめた。
この間の検査というのは、3ヶ月前の定期身体管理検査、いわゆる精密な健康診断のことだ。
直前にかなりシビアな任務が放り込まれていたから、僕も少し数値が悪かった。
魁はといえば、辛うじて生きていると言ってもいいほど悪い数値が並んでいた。
彼は全身性の自己免疫疾患を患っている。
それが “丹” に対するアレルギー反応である事が分かって、そのことをきっかけに委員会が所属している緊急対策研究病棟に収容された。
そうしてさらに詳しい検査の結果、共鳴能力の高さから会員として入会するようにお上に打診され、彼は会員となった。
丹アレルギーでありながら、丹と同調する任務を課せられた彼の体は任務を行うたびに蝕まれていく。
当たり前だ。彼はアレルギー なのだから。
委員会に入会する時、そのことを彼は重々理解していたはずだ。なのに。彼は嬉々としてこの委員会に入ってきた。まるで “そうであることこそ正解である” かのように。
研究病棟で治療を受け、回復し、また任務に身を投じ、悪化させて帰って来る。彼も物好きな人なのだ。僕に似ているところがあると思う。
けれど。だからこそ、ひどく悲しく、心配になる。
「僕は、魁の方が心配だよ」
思ったより湿った声が喉から漏れた。そんな僕の声に魁は驚いた顔でこちらを見ていた。そして、少しの間を開けて「あのさ」と言った。
「一也が、きっとシュンちゃんの事心配するんじゃないかな」
「あの子が?」
尋ねると、うん、と魁が頷く。
「あの子はここへ来たばかりだし、事情を分からないでしょう?」
そう言う僕に、魁は首を横に振る。
「分からなくったって、知らなくったって、何となく感じるんじゃないかな」
「……そうかな」
暁星一也。遺伝子の検査で決まった僕の新しい相棒。
彼が来て約2ヶ月。僕はあの子を避けていた。初日の出来事のせいも多少ある。けれどもっと大きな理由は。
「似てるんだよ」
「え?」魁が首をかしげる。
「にてるって? なに?」
「いや、何でもない」
僕は誤魔化す。
魁は不安そうな顔で続きを尋ねようとしていた。けれど、僕はそれを意図的に遮って踵を返す。
心がかき乱される。思い出す。嫌な記憶だ。
あぁ。嫌だ。
だからあの子に会いたくない。考えたくもない。こんな気持ちを誰にも晒したくない。
ひどく似ているんだ。
死んだ、前の相棒に。
「おやすみ」
僕は努めて穏やかに呟く。魁が何か呟くのが聞こえた。
けれど、彼の顔もろくに見ずに、僕は足早に基地へ続くドアをくぐる。
そして後ろ手でドアを静かに閉めた。
東雲 零樹 。僕の前の相棒。12歳年上の、落ち着いた雰囲気の人だった。
12歳で入会した僕は彼にいつも甘えていた。四六時中そばにいたような気がする。
相棒で、親代わりで、友達で、兄さんで、本当の家族以上の存在だった。入会した当時子供だった僕にとって、彼は僕の全てだった。
彼が死んだのは2年半くらい前のことだ。怖いだとか、悲しいという言葉では足りない。
心が引き裂かれそうだ。その気持ちを、瓜二つのあの子を見るたびに思い出す。
嫌なことを心の底から引きずり出される。
それでも。初めて会ったあの日。あの子の顔をはっきり見た時。
あぁ、彼がまた現れたのかもしれない、と。
そう、はっきり錯覚するほど。あの子との出会いは鮮烈で、心の底にあった感情が全て引きずり出されそうになった。
似ていた。
姿形、表情、仕草、目線、正しくその声が。
だから、ありえないと思った。彼がまたここに居るなんて、ありえないと。何かの間違いだと思った。
得体の知れない不審者を、いち早く抹殺しなければと、咄嗟に思った。
けれど、そんな僕の動揺に反して、彼は新しいメンバーとなり、あろう事か僕の新しい相棒となった。
あの時、あの子と話した内容を覚えていない。ごめんね、と必死に謝っていた記憶だけある。内容のない謝罪で彼との会話を誤魔化した。
心がかき乱される。嬉しい。隣にいてほしい。また。以前と同じように。
けれど。彼 は彼 じゃない。
人を代わりにするなんて。どちらにも失礼だ。考えられない。
それに怖い。もう、二度とあんな悲しい思いをしたくない。その先の、失った悲しみに怯えたくない。
それなのに。でも。どうしても。
彼 といた時のことを、僕はまだ忘れられなくて。もう一度、同じ感覚に浸りたいんだ。