鴉
シュンさんと訪れた屯所の第二会議室は、あの日と同じ木の匂いがして、オレの気持ちを落ち着かせてくれた。
あの日以来、ここへは来ていなかった。特に意識していた訳ではないけれど、なんとなく足が向かなかった。毎日忙しかったし、新米のくせに一人でここに入るのは気が引けたからだ。
先に奥に入っていったシュンさんが臙脂 色のソファに座って足を組んで座る。オレはその向かいのあの日と同じ南京椅子に腰を下ろした。
「一也とこの部屋で一緒にいるのは、あの日以来だね」
シュンさんが言って、どこから持ち出してきたのか脇に置いてあった電気ケトルにミネラルウォーターを注いでお湯を沸かし始める。
「あの時は、嫌な思いをさせたね。……改めて、ごめん」
「別に。気にしてないってこの間も言いました」
オレの言葉に、シュンさんは小さく「そっか……」とため息交じりに呟いた。
ここに来たのは3ヶ月くらい前だ。それが、ずいぶんと昔のように感じる。3ヶ月という時間の流れを考えると、こうして隣にシュンさんがいることがとても不思議だ。
もちろん、シュンさんとあんまり一緒に過ごすことはできていないし、遠い存在なのは確かだ。それでも、一緒に食事をしたあの日以来、オレはこの人の輪郭を少しだけ理解したような気がしていた。
オレの母さんが、優しい人には2種類いると言っていた。「無謀な人」「強い人」。
でもシュンさんはきっと「無謀で、強い人」なんだとオレは思う。
人には限界がある。自分のできる範囲でしか人に優しくできないし、限界を超えて人は救えない。それでも、何も考えないで情に絆されたり、その場の思いつきだったり、優しくしている自分が好きで、限界を考えないで他人を助けようとする人もたくさんいる。
そういう優しさは、無謀で傍若無人だ。
だって、自分に限界がきてしまったら、助けようとしていた人を切り捨てないといけない。
助けてくれると期待して、それを希望にしていた人はむしろ絶望に突き落とされる。
「気まぐれで手を差し伸べて、自分の都合で “やっぱりやめた” なんて、それは助けを必要としている人の目の前にある藁を引き抜くことだ。だから、どんな理由であってもしちゃいけない。残酷だったとしても『ここまでしか自分にはできない』という線を引ける強さと、自分を守りながら人を助ける強さ。助ける人は人の2倍以上の強さが必要なんだよ」
看護師として、色んな災害現場にボランティアとして飛び回っていた母さんの言葉だ。
シュンさんは、母さんの言う「強い人」を体現していると思う。
でも、シュンさんの場合は、限界を超えてしまっても、自分の身を削って成し遂げてしまう。だからオレは思う。シュンさんは「無謀で、強い人」なんだ、と。
「さてと……どこから話そうかな」
言って、シュンさんが足を組み直す。
「新しい任務の話ですか?」
オレが尋ねると、シュンさんが「うぅん」と唸りながら俯いた。そして間をおいて、すぐに真剣な顔でこちらを向いた。
「結論から言う。組織内に “内通者” がいる可能性がある」
「内通者?」
オレは思わず驚いて聞き返した。けれど、オレはすぐに黙ってシュンさんの話に耳を傾ける。
上長、上官の話は最後まで黙って聞くように高校で教えられたからだ。
「概要は後で話す。まず、今のところ 信用して良い人間を列挙するから覚えろ」
「はい」
「僕たち、丹電子警衛委員会のメンバー4名。第一研究室主任研究員、睦琥央輔先生。第四研究室主任研究員、卯ノ花結姫先生。以上6名だ」
「了解しました」
そうオレが言ったのと同時だった。
ちょうど電気ケトルがカチッと鳴った。
お湯が沸いたな、と少し気が逸れてよそ見をする。すぐに、いけない、と思ってシュンさんを見たらシュンさんも気が逸れたみたいで厳しい顔からいつもの(魁君曰く)なよなよしたシュンさんに戻っていた。
シュンさんは早速、品のいい花柄のティーカップを棚から二つ引っ張り出して来て、中にティーパックを放り込んでお湯をゆっくり注ぎ始める。
ティーパックはいつも魁君がカフェに作り置きしてくれているやつだ。
「俺のオリジナルブレンド、シュンちゃんもお気に なんだよ」とかなんとか魁君が言っていた気がする。
上からここまで持ってくるってことは、本当に気に入ってるんだな。
「やっとここに慣れてきたばかりなのに、きな臭い話でごめんね」
なよなよしたシュンさんがお湯を注ぎながら呟いた。
「第一研究室の睦先生は、まだ会ったことないよね?」
「はい」
オレは素直に頷く。
「まだ会ったことはないです」
「そっか。あのね、睦先生は気のいい頭がツルツルしたおじさんなんだ。僕が12歳でここに来た時からとてもお世話になってて……。そういえばあの時からもうハゲてたな」
「へぇ」
「今度紹介するよ」
シュンさんが言って、淹れ終わったカップの一方をオレに差し出してくる。
その様子が『内通者』という話題となんだか不釣り合いで、オレは少し顔をしかめる。
なんだか、シュンさんが無理しているような気がしたから。