鴉
「おかえりなさい先生」
オレが真っ先にそう言うと、結姫先生は「ただいま」と笑って応えてくれた。中佐に向けていた表情の面影はなくて、いつもの優しい笑顔の先生に戻っていた。
途端に、あはは、とシュンさんが隣で笑い声を上げる。
「結姫、あんな事言うのはやめてくれよ。また風当たりが強くなるじゃないか」
「だって本当の事でしょう? 今日は高級なお寿司を食べようって、委員長が仰ったんじゃないですか。しかも、委員長の奢りで」
二人でお寿司を食べに行くのか。そんな話になってたのは知らなかったな。考えながら二人を眺めていたら、結姫先生がふふっ、と笑って「一緒に行こうね」と言ってくれた。
「オレも行っていいの?」そう尋ねようとしたオレの声が、シュンさんの大きなため息で掻き消される。
「奢るのはどってことないけれどね……」
言いながらシュンさんが頭を掻いた。
奢るのは いいのか。高級なお寿司。
オレがまた首を傾げると、結姫先生がまた笑い声を上げた。
「羽振りがよろしくて結構ですね。……まぁ、委員長兼少佐ですからね」
「君ねぇ……少しはカッコつけさせてくれないかな」
「はいはい」
なんだか、すごく仲がいいんだな。二人に色んなことを尋ねるのが途端に面倒になって、オレはさっきまで座っていた椅子に座り直す。
シュンさんって、結姫先生ともこんなに仲が良かったんだな、と。ぼんやりと思って、なんだか複雑な気持ちになる。この複雑な気持ちを、わざわざ解読したいとも思わないけれど。
「お寿司の話はいいよ」
言って、シュンさんが静かに椅子に座した。
「それで、どうだった? 今日の収穫は」
シュンさんに尋ねられた結姫先生は真剣な顔になって「はい」と返事を返した。
「2つあります。1つ目は、今日は “メインディッシュ” まで辿り着けなかった、という残念なお知らせです」
「そう」
「2つ目はおめでたいお知らせです。暁星一也委員の正式な採用が決定しました」
「オレ?」言って、オレは思わず結姫先生の方を見た。
「どういうこと? 今まで正式じゃなかったんですか?」
そうとも尋ねると、シュンさんが笑いながら「形式上ね」とオレに言った。
「通例として1ヶ月の検査検診期間、3ヶ月の試用期間を経て採用となる。まぁ、さっきも言ったけれどあくまで “形式上” の話だ。基本的に大きな問題がなければ今までと特段何も変わらない」
「……知らなかった」
「本人に言わない事になってるからね」
シュンさんに言われてオレは下を向く。
『今までと特段何も変わらない』
その言葉に半分安心して、半分落ち込んだ。
試用期間だったから、シュンさんがオレと距離をとっていたのかも、と一瞬思ったから。そうだったら良いな。だから、もしかして、と少しだけ期待する。けれど、シュンさんの “特段変わらない” という言葉に含まれた意味は、恐らく本当に何も変わらないという意味のような気がした。
変わらないのかな。何も。
寂しい。多分、そう思う。
きっと見当違いなところで落ち込んでいるのかも、と思わなくもないけれど。今はこれがオレにとって一番重要なことだ。
「 “そのためのお寿司” なんですよね? 委員長?」
そんな結姫先生の声が聞こえて、オレは顔を上げる。
「 “そのためのおすし” ?」
ぼさっとしていたから咄嗟に聞き取れなくて、オレは思わず聞き返した。
すると、シュンさんが言いにくそうに目線を泳がせて、えっと、とオレに向かって呟いた。
「一也、正式採用おめでとう。特段変わりはないかも知れないけれど、その……お祝いに、お寿司を一緒に食べに行こう」
口から、えっ、と声が漏れた。
「……先生とシュンさん二人で行くんじゃないの?」
尋ねると、結姫先生が珍しく大きな声で「あはははは」と笑って、一方のシュンさんは困った顔でオレのことを眺めていた。
「ちがうの?」
オレが聞くと、ひとしきり笑った結姫先生が「違うちがう!」と首を横に振る。
「私の方が “おまけ” 。本命は、一也君の正式採用のお祝い」
「オレの?」
「そう、一也君の」
結姫先生に言われて、オレはどうしたらいいか分からなくて思わず下を向いた。
「もしかして、お寿司嫌い?」
シュンさんが恐々 と尋ねてくる。なんであんたが狼狽えてるんだよ。
「好き……です。けど」
「けど?」
「……そんな風に、してもらえると思わなかったから」
オレが言って下を向くと、シュンさんが小さく息を吐いて、それから「結姫のせいだ」と呟いた。
「君があれ を追い払うダシに僕を引き合いに出すから。カッコつかなかったじゃないか」
「あはは、それは失礼しました」
反省の色が少しも見えない結姫先生の言葉に、シュンさんは少し唇を尖らせる。そんな様子をよそに、結姫先生は何か思い出したように「そうだ!」と声を上げた。
「一也君、お寿司も大事なんだけどね」
「君って人は」シュンさんが呆れた声を上げた。けれど、そんなの気にする事なく、結姫先生が持っていた紙袋の中を漁り始める。
そして中から小さなビニール袋を取り出して、はい、とオレに手渡した。
中には、小さなピンバッジが入っていた。