鴉
「これは、酷いな」
そう呟いたシノさんの後ろで、オレは必死に息を止めて、その光景を見つめていた。
工場跡に建てられた、工場の建屋をそのまま流用した倉庫。柵の扉を乗り越えたその先の一番奥に、オレ達はその塊 を発見した。
初め、それが何なのか、暗かったしオレにはよく分からなかった。けれど、暗がりに目を凝らしながら近付いて。間近まで来てやっと、それが “不自然な形をした死体” であったことを、髪らしき毛の塊から理解した。
死体の四肢と胴体が、何層にも折り重なっているように見える。それが、切断されて積み重ねられたものなのか。それとも、あらぬ方向に折り曲げられたものなのかは定かじゃない。
辛うじてオレが見るに耐えられたのは、それがほとんど丹化して、赤黒い色の塊に成り果てて死体らしさ がまるで無かったからだ。
思わず顔を顰める。不気味だ。強い不快感がオレの背中を駆けた。
「こちら3番。目標を発見した」
そうハクさんに報告を入れるシノさんの声を聞きながら、オレは死体にもう一度目を凝らす。
死体は動かない 。けれど、聲は確かにオレの頭の中心にそっと響いてくる。
感じる。地を這うような小さな聲だ。オレの身体の中心を、強く引っ張ろうとする。丹だ。心臓が痛くなってくる。
ふと。暗闇に慣れた目が、死体の変な位置から突き出した、細長いものを捉える。
薄っすらと目線でなぞったそれが、つま先の、足の指のような、輪郭である事を、認識して————
———— 途端。
怖くなって、宙に目線を逸らす。
人だ。
改めて認識させられる。鳩尾が苦しくなる。思わず埃っぽい空気を吸い込んで息を止めた。ゾッとした。
「だめだ。電波が遠い」
シノさんの呟きが聞こえて、オレは我に返る。
「地下に潜ってる」
シノさんはそうとも言って、通信を切ってオレの方を向いた。
「レンはあれを見張っていて。僕は周辺を見回ってくる。終わったらすぐに無害化を開始しよう」
「はい」
そう、オレはしっかりと返事をしたつもりだった。けれど喉から出た声は、思った以上に掠れていて、おまけに微かに震えていた。情けなくて、思わず唇を噛む。
シノさんに顔を覗き込まれた。
「大丈夫?」
優しいその声と表情に、オレは思わず出そうになった涙を、目尻に力を入れて必死に引っ込めた。
「大丈夫です」
オレが言うと、シノさんは笑って、オレの腕を軽く摩 ってくれた。
「1分で戻る。数えててもいいよ、ぴったりで戻るから」
シノさんはそう言って、オレの返事を聞かずに踵を返す。そして足早に、倉庫の奥に走って行ってしまった。
『ね……ぇ』
「っ……、」
シノさんが見えなくなった途端だった。喚ばれた気がして、思わずオレは振り向いた。
それ を見る。
遠い。けれど、近くにいる。感じる。これがもし、まだ人の色をしていたら。オレはどうなっていたんだろう。
そう良からぬことを考えて、思わず奥歯の近くに唾が溜まる。胃と喉元の間がつっかえる。喉の寸前まで何かが迫り上がってくる。
気持ち悪い。吐きそう。思わず口元を押さえた。
———— その時だった。
倉庫の入り口の方から、カツン、カツン、と大きな音が聞こえてきた。足音みたいだ。琉央さんや魁君があんなに大きな足音を立てるはずがない。
オレは咄嗟に近くの荷物の陰に身を隠す。
誰だろう。そっと頭だけ出して、足音の方を覗き込んだ。一人、倉庫の入り口から、こちらに向かって歩いてくる。背格好からして男に見える。
手に何か持っているみたいだ。遠くてよく見えない。オレは耳の後ろに付けた小型通信機のスイッチを入れた。
「3番」
シノさんを呼ぶ。
「人が入って来た。入り口から1人。多分男。何か持ってる。でも見えない。どうぞ」
『6番、分かった。すぐ行く』
プツっと、通信が切れる。
オレはもう一度入り口の方に目を凝らす。逆光になって、顔はよく見えない。けれど少しずつ、光が回って、手元が薄く照らされる。布に包まれた何かを手に持っている。
男がその布を剥ぎ取った————
「っ、腕……?」
———— 指の形のシルエットを、先端に捉えた。
それが、おそらく作り物じゃない。切り落とされた、人の腕であるのを、オレは瞬時に理解した。
恐怖で全身が固まる。心臓が信じられない程速く鳴る。手が震えてくる。
怖い。どうしよう。
怖い。
怖い。
怖い————
———— 瞬間だった。
なにかが、一気に、頭に蘇る。頭の奥に仕舞い込んでいたらしい記憶であるのを感じる。その記憶が、オレの脳内を圧迫して、それ以外の全てを頭の中から追い出していく。
思い出す。
思い出す。
母さんが死んだ、あの日。
息が苦しくて。気を失う。その寸前に。
腕が。
オレの目の前に落ちてきた事。
赤く変色した。
その 、腕が。
『おいで』
無意識に。
息が止まる。崩れ落ちる光景と。焦げ臭い、その臭いが喉にこびりつく感覚をもう一度追体験する。思い出す。
あれは、きっと皮膚が焼ける臭いだった。土埃と、鉄の臭いに混じって、その吐き気のするような臭いが。
喉がつかえる。気持ち悪い。火傷で感覚がないはずの背中が、酷く痛い。
その時の、光景、におい、感触、痛み、全ての感覚が、目の前の全てと重なる。
怖くて。寒くて。熱くて、臭くて、痛くて。
ダメだ。
いやだ。
怖い。
心臓が煩い。息も絶え絶えになる。視界が霞む。
ダメだ。集中しろ。オレは手を強く握って腿を叩く。
それでも。
怖い。怖い。ダメだ。
身体が、言う事を聞かない。
『おいで』
引きずられる。聲が強くオレを喚ぶ。
『はやく』
『———— 6番、どうした』
聲がする。
『はやく』
『———— 状況を伝えろ、6番』
返事をしようとした。けれど、身体は、もはや言うことを聞かなかった。
頭の芯がオレの意思からすっかり抜け落ちて、オレの手の届かない場所に据え置かれているみたいに。
そして。完全に、視界が認識できなくなる。
そして。
それは。
オレに思い出させた。声、姿、名残も。遥か遠く霞んだと。そう思っていた。その全てを————
『ダメだよ一也』