鴉
『いやだ』
『たすけて』
『いっしょにいて』
『ねえ』
『きいて』
『きいてててててててててててて』
「っ、ぐ……ぅうう…っ!」
脳みそが激しく揺さぶられる。立っていられない程の目眩がオレを襲って、無防備になった五感全てに奴の聲が流れ込む。口に唾が溜まる。思わず奥歯を強く噛んで、無理矢理喉の奥に飲み下す。
マズい。このままだと。身体が、言う事を聞かなくなる。オレは手探りで通信機のスイッチに手を伸ばした。
「4番……、こちら、6番! 3番が交戦中、応援を———— 」
『あああああああ』
「———— うっ! ぐ……」
脳が揺れる。頭が、割れそうだ! オレは思わず頭を押さえ込む。そのままよろけて、地面に勢いよく突っ伏した。顔から前のめりになって、コンクリートの床に頬を擦り付ける。
痛い。痛い。動けない。金縛りにあったみたいに。
ドンッと、地面が揺れる。頬を伝って激しい振動を感じる。同時に、首筋を奴の聲がヌルく撫でる。
『いたい』
ゾッとする。なのに拒めない。臍 の下から脳天にかけて、神経が抜き取られる。
『いたい』
「うっ、」
『あいたい』
『あいたい』
『あいたい』
『あいたい』
『あ あ あ 』
息が止まる。手が震えて言う事を聞かない。オレは必死で音叉を鷲掴んで、ところ構わず叩いて、口に咥えた。
なのに。
「っ、」
『 』
聴こえない。音叉の音が。比べ物にならない程大きな聲に全て掻き消されて、同調も共鳴も、全て拒絶される。
「うぁ…っ!」
シノさんの声と、恐らくシノさんが床に転がる様な、地面を掠る音だけはっきりと聞こえた。
なのに! どうして。焦る。肝心なものが聴こえない。悔しくて奥歯を強く噛みたいのに、それもできない。
なんで。なんで、なんで、なんでっ…! 視界がぼやける。シノさんを見る事さえ、身体が許さない。
「うっ……ぁ」
もう一度シノさんの声が聞こえて、無理矢理、身体を微かに動かす。視界の端で、シノさんのシルエットが見えた。シノさんが地面に倒れ込んでいる。そして、何か、恐らく奴の本体が、ゆっくりシノさんに近付いていく。
ああ、シノさん。シノさん。息ができない。
ダメだ。奴が身体をしならせる。何本もある腕が振り上げられる。
やめろ。連れて行くな。
シノさんは、オレの相棒なのに。何も出来ない。こんな酷いことがあってたまるか。
ダメだ。シノさんはまだ。オレと一緒にいてくれなきゃ。
細長い、蠢く奴の腕の切先 が、シノさん目掛けて何度も振り下ろされるのが見えた。
ダメだ。嫌だ。嫌だ! 嫌だ! シノさんを連れて行くな! もう、一人になりたくない。オレを置いて行かないでよ!!
「ああああああっ! くそっ!! やめろっ…! やめろよおおぉっ!!!!」
全身の力が限界を超えて出力されていたと思う。手元に落ちていた音叉を感覚のない手で鷲掴んで、無理矢理投げる様に地面に叩き付けて柄を咥えた。
『あんたに置いて行かれたくない』
『いやだ!』
『しぬな!!』
『てを離すなよ!!!!』
「『シュンさん!!!!』」
実際に叫んだのか。それとも、叫ぶ様に聲を発したのか。自分の事なのに分からなかった。けれど。その聲が、揺さぶられていたオレの脳を静止させて、オレの感覚を一気に現実に引き戻したのは確かだった。
全身に一気に血流が廻り始める。痺れていたところに感覚が一気に戻ってくる。
大きく息を吸った。動き出した足を踏み出して、オレは思い切り走り出していた。
目に見えた光景は悲惨だった。無防備に転がったシノさんの腹をめがけて、奴の腕が何本も束になって。今まさに、振り下ろされるところだった。
頭が真っ白になった。
『死ね 』
オレは謂った。そしてそのまま、人間の体にもう一体人間がくっついたような、奴の連結部めがけて強く突進した。
「くそっ!」
「ぐぎゃ、」
柔らかい胴体に体ごと突っ込んだオレは、奴と一緒に倒れこむように地面に叩きつけられた。奴の聲が止んだ。
「レン!!!!」
シノさんの声が聞こえた。オレも起き上がろうとする。けれど、足が言うことを聞かない。
奴がゆらゆらと起き上がるのを、視界の端に捉える。オレは必死に、腹ばいになって、腕の力だけで奴から離れようとする。
その時だった。体がいきなり宙を浮いたような感じになって、目の前にシノさんの顔が現れた。オレの脇の下にシノさんの腕がある。シノさんに体を持ち上げられたのか、と。一拍遅れて理解した。
そして、オレはシノさんに支えられながら倉庫の端に連れて来られて、そこに乱暴に座らされた。相変わらず足は動かない。痛くないからきっと力が入らないだけだと思った。
オレは体を傾けてシノさん越しに奴を見る。奴が、スパイクに足を取られながら、ゆっくりこちらに向かって歩いてくる。けれどシノさんはそんなのお構いなしだった。
シノさんが奴に背を向けたまま、オレの前に蹲 み込む。その顔は傷だらけで、髪もボサボサだった。
「無謀にも……アイツに体当たりしたこと。怒るのは後にするから、よく聞いて」
「はい」
オレは小さく答えた。すると、シノさんがオレの音叉を掴んで、自分の膝に叩きつけた。シノさんの顔が悲しそうに見えたのは、きっと錯覚じゃなかった。
「僕と深く共鳴して」
言って、オレの口に音叉を咥えさせる。
「二度と 、僕を放してくれるなよ」
静かに。
でも力強く言ったシノさんは、今度は自分の音叉を膝に叩いて、それをそっと口に咥えた。
シノさんの視線が、オレの目を射抜いた。