鴉
『『 』』
お互いに、具体的な聲は無かった。けれど一方で確信する。無意識に。ただただ、感覚的に。
丹に呑まれそうになったオレの感覚以上に、シノさんが強い力で丹に連れて行かれてしまいそうな事を覚る。
オレが、シノさんを繋ぎ止めなければいけない事を感じて。オレが、シノさんの枷 である事を実感する。
そして、シノ さんが静かに謂う。
『僕を 』
まるで、その言葉が正解だったように。オレの心の隙間にピッタリとピースが嵌まるように。
オレは恐らく。とても、深く、シノさんと共鳴する。
ただ無意識に。途方もない昔からそうであったように。喩えるなら。蜘蛛の糸のような、綱のような、鎖にも似た “手” がオレ達にはあって。その手が、オレ達を繋いでいるみたいに。
『おいで 』
そう問われるから。
『距離 なんてない』
そう応える。それが正解だ。
手綱を伝って、シノさんの考えている隅々まで聴こえる錯覚を覚える。シノさんの全てが手に取るように解る気がする。風が強く吹き込んだ。
『やめて』
奴が喚んだ。
ぐんっ、と。首元から意識が奴の方に引っ張られる。
その瞬間。シノさんが素早く振り返って、太腿から拳銃を取り出した。そして片膝立ちになって、銃を構える。
『ねぇ』
聲がする。シノさんの。
『僕だよ』
『にげないで』
『応答して』
『えずくぐらい深く』
『てを離さないで』
———————— パンッ
発砲音が倉庫中に響いた。
『あああああ』
同時に奴が、体の中心からぐっと全身を縮こませながら激しい聲を撒き散らかす。奴の心臓に弾が当たった感覚を、オレもシノさんの感覚を通して理解する。
『いたい』
『やだヤダやだやだやだやだ』
『だめ』
『あああああああ』
銃弾を受けた衝撃で、丹が微かに分解されて、無害化されていくのを感じる。けれどまだ足りない。同調が遠い。
その時。
『応えろ』
「っ、」
ぐんっと。シノさんの聲で、周りの空気が重くなる。そしてその聲は、オレの腹と鼓膜の奥にも強く響く。どんどん、さっきと比べものにならない程の速度で、シノさんが深く奴と同調していくのを感じる。
それにつれて。奴の中 を、シノさんのフィルタを透かして、覗き込むような感覚がする。
赤黒い闇だ。それにどんどん、深く堕ちていく。集中して、周りが見えなくなるみたいに。周囲を認識しながら、それなのに自分は疎外される。
怖いと思う。けれど、その光景はシノさんが直接覗き込んでいるものだと知って。すぐに違う気持ちになる。
“手” を強く握る。この闇の中に、この人を堕としてはいけない、と。
『嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ』
奴が体を大きくくねらせながらゆっくりこちらに近付いてくる。大きな聲で喚 いて、オレ達を呑み込もうとする。それでも。
『黙れ』
聲で楔 を打つように。シノさんが奴の喉を聲で 締める。実際には見えないその聲が、まるでそこに存在しているように。ぎりぎりと、奴の喉が細い線で一気に締め上げられる。ピアノ線みたいな聲だと思った。
『おいで』
シノさんが謂う。シノさんが奴を喚ぶ度、シノさんがオレから遠くなる。
赤黒い闇に真っ直ぐ堕ちていく。オレはその手を離さないように、必死に手綱を握る。
同調が深くなる程、奴の体の権利をシノさんが塗り替えて支配していく。分解されていく準備を開始する。奴がどんどん大人しくなって、動きがどんどん静まっていく。
そして。ほんの一瞬。世界の全ての音が消えた。そんな気がした。
シノさんが上着の内ポケットに手を伸ばす。
その一瞬は、布が擦れるその微かな音が、世界に唯一存在する音だった。
『僕が君を、助けて あげる』
ナイフを取り出したシノさんが謂った。刃が螺旋になったそれを、シノさんは力の限り奴に向かって投げ付けた。どすっ、と鈍い音を立ててナイフが奴の肉を穿 った。
「『あああああああ———————— 』」
凄まじい物理的な声が倉庫中に谺 する。奴の腕が激しくしなって、周りにある荷物全てをガラガラッ、と薙ぎ倒して破壊した。
聲の激流に呑み込まれそうになる。同時に、丹が凄まじい勢いで無害化されていくのを感じる。それを具現化するみたいに、破壊された木箱の破片や荷物がオレの目の前に倒れ込んでくる。
「『あ゛あ゛あああああっ———————— 』」
シノさんが見えない。怖い。
今にもいなくなるんじゃないかと、ひどく不安になる。
その心の隙間から “手” が擦り抜けそうになる。
ダメだ。ダメだ。ダメだ。シノさんを今、放したら。
考えたくない!
『行かないで』
『くるしいよ』
『なんで置いてこうとするの』
「『ダメっ、う……ダメだよ! シュンさ————— 』」
———————— ガンッ、と。
左から。何かの衝撃がオレの頭を揺らしたのだけは分かった。すぐに視界が歪んで。目の前が暗くなる。
何かが。ぶつかった。
よく分からない。
身体が傾く。
痛い。
左の、頭が。
意識が、一気に遠のいた。
『一也!!!』
最後。
そんな聲が、オレの耳に届いた気がした。