鴉
俺 の手から瓶が滑り落ちる。そして瓶が液の表 を、ぽたん、と叩いて、そのままゆっくり沈んでいく。
水槽の中の透いていた液が、瓶の触れた所からみるみるうちに赤く染まって、粘り気を持ちはじめる。一つの命が、創られるように。
(一体、この液の正体は何だ?)
照らされる光で透けて見える赤ん坊も、どんどん赤く染まっていく。
そして、赤ん坊から周りに向けて、細い根の様な血管が瞬く間に伸びていく。
(赤ん坊がこの命 の心臓となるように)
『 』
液の底から、微かな聲が聴こえた。
( “丹” に違いない)
「何をした!」
一人の大人が俺 に向かって叫んだ。
「さあね」
俺 は答える。だって、今更物事を解 したところで、できることなんてありはしない。それに、本当に どうなるかなんて、俺 もどう言い表せばいいか曖昧だ。
解する事はひとつだけ。後戻りは出来ない。ただそれだけ。
赤ん坊は動かない。代わりに、どくっ、と、脈打つように水槽の液が大きく波打った。そしてそれはぶるぶると蠢いて、ひとりでに動き始める。
大人達がたじろいで後ろに下がっていく。水槽の中の液が手 を伸ばすように上に伸び上がってくる。そして、その手 が水槽の淵を掴んだ。
次の瞬間。津波のように、液全部が赤ん坊を孕んだまま水槽から床に向かって、勢いよくどろどろ と飛び出していく。
「なんだこれは」
「やめろ!」
「一旦引け!」
大人達が逃げ惑う。
『聴いて』
俺 は謂う。
『なんで』
『にげるの』
そう応えが返ってくる。蠢く、その液の底から。だから俺 も聲を返す。
『奴らを喰い殺せ』
俺 の聲に振響 して、■■ となったそれが目星 を持って動き始める。
(驚くほど、僕の聲に従順なこれ は一体なんだ?)
大人達に向かって、どぷどぷと音を立てながら津波のように襲いかかる。
けれど。半ば、赤ん坊に繋がったままだった臍の緒が引っ掛かる。まるで液体の中から産み落とされるように、赤ん坊が■■ からごろんと飛び出した。
■■ となった液体は、そのまま大人達を追いかけていく。ころころと転がった血管まみれの赤ん坊が、水槽にぶつかって止まる。俺 は、それを静かに見下ろす。
赤ん坊は動かない。けれど、気 に触れた所から、音もなく肌がどんどん赤黒く爛れていくのが見える。
(赤ん坊の転がった痕が残る地面も、赤黒く変色していくのが見える)
刹那。赤ん坊の背中の皮の下に、まるで虫が湧いたように。ぐにぐにと背中が蠢いた。
(形態変化 だ!)
みるみるうちに、背中の皮が破られる。破れた所から人の手の形に似た触手が何本も生えてくる。その様子を僕はじっと眺める。
(まるで見惚れているみたいに……!)
そして心の少しだけ開いた隙間に、強い聲が入り込んでくる。
『 だ』
『 だ』
『 だ』
『復讐だ』
『復讐だ』
『復讐だ』
『復讐だ』
その聲に、俺 はひどく振響 する。吐き気がした。
(これはどちらの聲なんだ。 “丹” の聲か、それとも。これは、僕自身の聲なのか?)
『復讐だ』
気持ちが高鳴って、身体が震える。今までずっと夢見てきた。この場所を壊すことを。それが。やっと叶う時が来た!
なのに。時折、胸の奥がぐっと痛む。この痛み はなんだろう。これより素晴らしい事なんか、生まれてこの方あるはずがないのに。
(この感覚 も、僕自身のものなのか?)
赤ん坊から生えた触手が、まるで蜘蛛の足の様に踏ん張って身体を立ち上がらせる。
(丹化第一形態ヒトガタ、都市伝説名『蜘蛛人間』だ)
『 』
『 』
『 』
どんどん、一刻一刻、聲が強くなる。体の中心から芯が引き摺り出されるように、強く引っ張られる。
(まるで、同調して飲み込まれるみたいに)
駄目だ。あと数刻ここにいたら、俺 も道連れだ。
(道連れ? さっきと同じように言う事をきかせるんじゃないのか?)
俺 は急いで水槽の上から岩を伝って飛び降りる。そして、赤ん坊、否、■■ をその場に置き去りにして、力を振り絞って出口に向かって駆け出した。